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2009年3月 7日 (土)

「他者の過ちをゆるす」 「ヒロシマ」と共鳴=高尾具成(ヨハネスブルク支局)

(Mainichi Japan) March 6, 2009

特集:ボーン・上田記念国際記者賞、毎日新聞・高尾具成記者に 等身大のアフリカ伝え

■記者の目

Hiroshima finds common ground with Rwanda in forgiveness of mass killings

 ◇「他者の過ちをゆるす」 「ヒロシマ」と共鳴=高尾具成(ヨハネスブルク支局)

At the end of last year, when I walked through areas of Rwanda that had been ravaged by mass killings, I met both perpetrators and victims of the atrocities. Two key phrases were common among them: "Never repeating what happened," and "Forgiveness."

The words evoked memories of testimonies of the hibakusha, or atomic bomb survivors, whom I have reported on for a long time. The testimonies of sufferers offer clues in the path toward reconciliation that is common to humankind.

 昨年末、アフリカ・ルワンダで虐殺の現場を歩き、被害者と加害者に会った。両者に共通したキーワードは「二度と繰り返さない」「ゆるし」だ。想起したのは長く取材しているヒロシマ・ナガサキの被爆者の語りだ。人類共通の和解へのヒントがそこにある。

In 1994, the slaughter of Tutsi residents and other victims by Hutu extremists in Rwanda began. Some 800,000 to 1 million people were killed. Inside Nyamata Church on the outskirts of the Rwandan capital Kigali lie the clothes of more than 2,000 people who were slain, the colors of the garments now fading. There are bullet holes in the ceiling, and dry bloodstains remain on a cloth at the altar.

 ルワンダでは94年、フツ系過激派によるツチ系市民などの虐殺が始まり、80万~100万人が殺された。

 首都キガリ郊外のニャマタ教会には、殺された2000人以上の衣服が色あせながら置かれている。天井には弾痕、祭壇の布には乾いた血のりが残る。

One person who suffered a major loss over the killings was 59-year-old Gakire Moses, who lost more than 40 relatives. When I asked him what his most important message was, he said it was to forgive others' mistakes.

ガキレ・モゼスさん(59)は親族40人以上を失った。「最も大切なメッセージは」と問うと「他者の過ちをゆるすことです」と話した。

When I heard this, the faces and words of several hibakusha I interviewed when I traveled to Hiroshima Peace Memorial Park as a fledgling reporter came back to me.

 駆け出し記者時代、日々、通った広島平和記念公園で取材した幾人もの被爆者の顔や言葉がよみがえってきた。

"The pledge to never repeat the same mistake again comes from the desire to stop the chain of hatred -- a desire that is not restricted to Hiroshima, but is common across the world," I said.

Moses' face lit up. He said he felt just the same, adding that Hiroshima was Rwanda's hope.

「『二度と過ちを繰り返さない』との誓いは、ヒロシマのみならず世界中の憎悪の連鎖を止めたいとの思いからです」。私が伝えるとモゼスさんの表情が輝いた。「まさに同じ思い。ヒロシマはルワンダの希望です」

In the underground burial facility behind the church lay tens of thousands of bones of victims, broken up and lying on top of one another. I have been inside Hiroshima Peace Memorial Park's atomic bomb mound to commemorate victims just once. There in urns lay the cremated remains of about 70,000 victims that had not been claimed, with only the places that the remains were found listed. With the same smell that had emerged from these ashes in Hiroshima, the remains in Rwanda spoke to me.

 教会裏の地下の埋葬施設には数万体もの遺骨が折り重なって安置されていた。広島平和記念公園の「原爆供養塔」内にたった一度だけ、入ったことがある。そこには採集場所だけが記された骨つぼに引き取り手のない約7万柱の遺骨が眠っていた。それと同じにおいで、ルワンダの遺骨は私に語りかけてきた。

The experiences of another 23-year-old survivor whom I met at another facility, Ntamara Church, resembled those of people in the Battle of Okinawa. Fearing slaughter, the mother of the survivor put her hands over the mouth of the survivor's younger brother, who was crying. There were some children who were suffocated by their parents, the 23-year-old recalls. The account brings to mind images of the tragedy in the caves of Okinawa, where residents hid from U.S. soldiers.

 別のヌタラマ教会で会った虐殺犠牲者遺族の体験は沖縄戦とダブる。ニシミヤマナさん(23)は「母は虐殺を恐れ、泣き叫ぶ2歳の弟の口を手で覆いました。親に窒息死させられた子もいました」。米兵から住民が逃げ隠れたガマ(壕(ごう))での悲劇を思い出した。

There is a difference between Rwanda and the cities of Hiroshima and Nagasaki, which were devastated by the atomic bombs dropped by the United States, namely that in Rwanda, those responsible for the damage live alongside victims today. There are also differences in religious views. However, there is no doubt that hibakusha and genocide victims sympathize with each other in their struggle with experiences that they want to forget and memories they must not forget.

 確かに、米国が原爆を落としたヒロシマ・ナガサキと違い、ルワンダでは今も加害者と被害者が隣り合って暮らす。宗教観の違いもある。だが「忘れたい体験」と「忘れてはいけない記憶」との葛藤(かっとう)の中、被爆者と虐殺犠牲者は間違いなく共鳴し合っている。

When I travel in Africa, I keep in the pocket of my bag booklets containing photographs showing the devastation of the atomic bombings of Japan and the difficulties of the lives of hibakusha afterwards. I tell people what the cities are like now, following their recoveries.

 アフリカで各地に向かう際、かばんのポケットに原爆の惨状やその後の被爆者の生活の困窮を示す写真入りの小冊子を持ち歩くようにしている。現在の復興した街の様子も伝える。

I become passionate when I speak about Hiroshima and Nagasaki on African soil. In the hearts of residents there is a set of values common to humankind that aims to deter conflict -- something grounded in tragic experiences. This is the kind of Africa I want to tell people about. ("As I See It," by Tomonari Takao, Mainichi Shimbun Johannesburg Bureau)

アフリカの大地で、ヒロシマ・ナガサキを語る時、熱い気持ちになる。市民の心の中には悲惨な体験を踏まえた「紛争抑止に向けた人類共通の価値観」がある。私は、そんなアフリカの姿を伝えたいと思っている。

―――以下、関連資料―――

 国際理解の促進に貢献した記者を表彰する今年度のボーン・上田記念国際記者賞に、ヨハネスブルク支局(南アフリカ)の高尾具成(ともなり)記者(41)が選ばれた。ムガベ大統領による独裁体制が敷かれたジンバブエに、欧米の主要メディアが入国を拒否される中で独自に入国。人権弾圧の実情を報じるなど一連のアフリカ報道が評価された。高尾記者の取材を振り返り、アフリカ報道の課題を探った。

 ■厳戒のジンバブエで

 高尾記者は、08年3月末、ムガベ大統領による厳しい取材管制が敷かれたジンバブエに正規の取材ビザを取得して入国した。大統領は英BBC、米CNNなど、敵対する欧米諸国の主要メディアの入国を拒否していた。緊迫した状況の中、高尾記者は取材を進めた。

       ◇

 「何をしている」。スーツを着た紳士が高尾記者の肩をたたいた。野党の弁護士に話を聞いていた高尾記者が取材許可証を差し出す。けげんそうに見つめた紳士は、無言で立ち去った。紳士は記者を監視する当局の人間とみられる。

 取材許可証のチェックは場所や時間を変えて何度も行われた。観光ビザで潜入した「もぐり」の記者を国外退去させるためだ。

 ムガベ大統領は独立闘争の英雄だったが、80年から権力を握り、独裁体制を強化した。00年ごろから、白人農場主の土地を強制収用して黒人農家に分配する政策を本格化。白人農家が大統領支持者により暴行を受ける例も出て、欧米から制裁を受けた。これを機に激しいインフレで経済が崩壊。08年3月の大統領選で野党側が優勢だったが、大統領は結果を認めなかった。

 4月3日、毎日新聞東京本社から高尾記者に電話がかかった。米ニューヨーク・タイムズ紙の男性記者が当局に拘束されたという。ホテルに戻ると、ホテル内にある野党の事務所も当局に捜索されたという。「ついにメディア弾圧が始まった」と緊張感が高まった。

 高尾記者のホテルには、欧米メディアへの協力者も泊まっていた。彼らは情報を求め、ホテル内の物陰で高尾記者と接触した。わずかな物音がしただけで、会話の内容を観光などに切り替えた。

 ◇虐げられた側の声、聞こう

 大統領派が多い地方で取材していると、初老の男性が腕を引っ張り、家の敷地に呼び込んだ。「政治はタブーだ。取材を受ける人に危険が及ぶ」。命がけの忠告だった。

 「虐げられた側の声を徹底して聞こう」。高尾記者は大統領派に弾圧された白人農場主に接触した。

 周囲は大統領の支持者ばかり。「行き先はどこだ」。取材に向かう道路で大統領派の男が詰問してきた。「農産物取引だ」と言いつくろい、切り抜けた。到着した農場主宅は窓ガラスが割られ、鍵が壊され、家財道具はすべて持ち去られていた。残された犬が震えるように身を寄せる。理不尽な暴力に「これが独裁の真の姿だ」と実感。ありのままを報じた。

 大統領は決選投票を決めたが、大統領派は野党支持者への暴行を繰り返した。野党候補は撤退し、大統領は5選を宣言した。しかし7月、主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)は、当選を認めず、暴力に憂慮を示す特別声明を出した。

 6月末に再訪したジンバブエでは、大統領派の暴力が頂点に達し、国民の顔が険しくなっていた。だれも政治に触れようとしない。暴行を恐れ、多数の野党支持者が米国などの大使館前に逃げ込んだ。国外脱出をはかる国民も後を絶たない。経済崩壊で学校に行けず、街頭で学費を募る少年。放置されるエイズウイルス感染者。白人農場主は拉致、暴行されていた。高尾記者は「記者の目」で、ムガベ大統領に「権限移譲」を迫った。

      ◇

 高尾記者はこのほか、オバマ米大統領の父の故郷ケニア西部を訪れ、大統領誕生に熱狂する人々の姿を描いた。カメルーンではエイズウイルスに苦しむ人々を追い、ルワンダでは虐殺後に和解と再生をはかる国の姿を報道した。

 ◇底辺で苦しむ人を--ジャーナリスト・松本仁一(じんいち)氏

 高尾記者の仕事は印象に残っている。昨年3月にジンバブエに入国したが、なかなか出国しない。アフリカには「記者=スパイ」とみなして取材ビザを発給しない国も多い。ビザをもぎ取って入国し、ビザが切れても粘る。アフリカ取材の鉄則だ。

 元朝日新聞の故伊藤正孝記者はよく「アフリカで現場に行かずに解説など書いていても意味がない」と話した。アフリカをイデオロギーで理解し、情勢悪化を何でも過去の植民地支配のせいにする知識人も多い。しかし高尾記者は、虐げられているのはそこに生きる人々で、虐げているのがムガベ・ジンバブエ大統領であることに気付いた。現場で一番苦しんでいる人を見抜く。記者が第三世界にアプローチする時の基本だ。

 ジンバブエから南アフリカに不法入国する移民が、国境のフェンスをくぐる写真と記事(08年9月18日東京本社版朝刊)は圧巻だった。同じ内容の話を、私はその1年前に取材している。不法出国者を捜し、詳細に話を聞いて記事を書いたが、現場を見ることはできなかった。しかし高尾記者はその現場をつかんだ。銃弾が飛んで来る危険性もあった。紙面を見て「やられた」と感じた。

 アフリカには治安が悪い国も多い。地方に行けば水洗トイレもなくベッドはダニやシラミだらけ。早くシャワーを浴びて新しいシーツにくるまって眠りたい。そこを粘って取材を続けた。高尾記者はジンバブエでアフリカの面白さを知り、視点が定まったようだ。社会の底辺で苦しむ人たちから視点が離れない。

      

 68年、朝日新聞社入社。中東アフリカ総局長などを経て07年退職。93年度ボーン・上田記念国際記者賞、02年度新聞協会賞。著書に「アフリカを食べる」「アフリカ・レポート」など。

 ◇人々の喜怒哀楽と向き合う--京大大学院教授(アフリカ地域研究)・松田素二(まつだ・もとじ)氏

 日本のアフリカ報道は多くの場合、二つに分類できる。アフリカ=未開(後進)意識に基づき、半ばあざ笑うようなタイプ(例えばジンバブエの100兆ドル紙幣発行)と、ポリティカリーコレクト(政治的な正しさ)の視点から批判する(例えばジンバブエのムガベ大統領の独裁批判)タイプである。報道される頻度自体も少ない。アフリカは日本にとって「遠い」大陸だ。07年で、日本の観光客のうちアフリカへ行くのはわずか0.35%。全貿易額の中でアフリカが占める割合は2%前後だ。日本全体が、アフリカへの無関心を支える枠組みを築いてきた。

 枠組みを超えアフリカ報道をする意味は何か。都市や村で、森や砂漠で暮らす人々の喜怒哀楽と等身大で向かい合い、社会の潜在力を見通し、学ぶべき知恵を日本社会に提供することではないか。こうした視点を持つ一人が高尾記者だ。そのジンバブエ報道は避難民の苦悩と迫害の実態を彼らの目線で伝えながら、欧米メディアの大統領批判一辺倒と一線を画した点で、日本のアフリカ報道の可能性を示している。

 ◇生の言葉と背景を--アフリカと日本の開発のための対話プロジェクト(DADA)代表・尾関葉子氏

 私たちの市民団体はジンバブエでの農業支援や、日本でのアフリカ報道の調査を行っている。08年では、サハラ砂漠以南のアフリカについて、主要全国3紙が言及したのは、各1600~1900件と大差はない。しかしジンバブエの言及は毎日新聞がとりわけ多い。これは、高尾記者が地道な報道を続けているためだ。

 アフリカの記事は似た論調が多い。記者の多くは事前の仮説を裏付ける形で取材する。しかし、高尾記者は独自の取材源を確立し、農村の現場にも入っている。先入観なく、普通の人々の生の言葉から記事を書く。それが共感を呼び、記事を深めている。

 高尾記者は記事でムガベ・ジンバブエ大統領に「辞任」でなく「権限移譲」を求めた。国民には独立闘争の英雄である大統領への畏敬(いけい)の念がある。それを知っているから出てくる言葉だ。

 各紙の報道は南アフリカなど特定の国への言及が多い。ジンバブエが多かったのは欧米の関心が高かったからだ。しかし、植民地支配という負の遺産を持つ「欧米のサングラス」越しで本当のアフリカの姿が見えるのか。アフリカ報道は貧困、飢餓、難民などネガティブな記事が多い。同時に平和な日々の暮らしにも光を当ててほしい。人々の言葉、その歴史や背景をきちんと伝えてほしい。そうすればアフリカの真の姿が見えてくる。

 ◇バランスとれた報道--駐日ジンバブエ大使、S・H・コンバーバッハ氏

 プロのジャーナリストとは何か。先入観で物事を見ず、ありのままを報じる者だ。高尾記者はジンバブエについて、良い面も悪い面も報じた。ムガベ大統領の批判だけに終わらず、大統領支持者の考え方にも触れている。時にジンバブエの苦境を誇張気味に報じる欧米メディアと違い、バランスの取れた情報が多くの読者に伝わったと思う。経済悪化や疫病など、わが国を取り巻く状況は厳しい。だがこの2月には新政権が発足し、混乱の打開に向かっている。わが国は国民の識字率は高く、ニッケルやクロムなどの資源にも恵まれ、潜在的な力を秘めた国だ。日本はアフリカのネガティブな部分だけでなく、豊かで希望ある側面にもさらに目を向けてほしい。

 ◇脚でつかんだ現実--05年度受賞者・國枝すみれ

 長崎市への原爆投下の翌月、外国人記者として初めて現地入りした米紙記者の未公表原稿を60年ぶりに見つけ、05年度に受賞した。

 記事を書く際にどちらの言い分が正しいか迷う時がある。対立する意見を載せて終わるのでは意味がない。取材するほど分からなくなることもあるが、多くの場合、現地で駆け回っているうちに否定しようのない現実が浮き出てくる。その時は他が何を報じていようと、自信を持って書ける。高尾記者にもそんな自信が感じられる。

 ニュースはインターネットで瞬時に世界を流れる。海外特派員には情報の渦に流されず真実を見極める眼力と脚力が必要だ。「とても日本人に見えない」異質な雰囲気をまとって帰国する同僚を誇りに思う。現地を駆け回った証拠だからだ。(前ロサンゼルス支局)

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 ■記者の目

 ◇「他者の過ちをゆるす」 「ヒロシマ」と共鳴=高尾具成(ヨハネスブルク支局)

 昨年末、アフリカ・ルワンダで虐殺の現場を歩き、被害者と加害者に会った。両者に共通したキーワードは「二度と繰り返さない」「ゆるし」だ。想起したのは長く取材しているヒロシマ・ナガサキの被爆者の語りだ。人類共通の和解へのヒントがそこにある。

 ルワンダでは94年、フツ系過激派によるツチ系市民などの虐殺が始まり、80万~100万人が殺された。

 首都キガリ郊外のニャマタ教会には、殺された2000人以上の衣服が色あせながら置かれている。天井には弾痕、祭壇の布には乾いた血のりが残る。ガキレ・モゼスさん(59)は親族40人以上を失った。「最も大切なメッセージは」と問うと「他者の過ちをゆるすことです」と話した。

 駆け出し記者時代、日々、通った広島平和記念公園で取材した幾人もの被爆者の顔や言葉がよみがえってきた。「『二度と過ちを繰り返さない』との誓いは、ヒロシマのみならず世界中の憎悪の連鎖を止めたいとの思いからです」。私が伝えるとモゼスさんの表情が輝いた。「まさに同じ思い。ヒロシマはルワンダの希望です」

 教会裏の地下の埋葬施設には数万体もの遺骨が折り重なって安置されていた。広島平和記念公園の「原爆供養塔」内にたった一度だけ、入ったことがある。そこには採集場所だけが記された骨つぼに引き取り手のない約7万柱の遺骨が眠っていた。それと同じにおいで、ルワンダの遺骨は私に語りかけてきた。

 別のヌタラマ教会で会った虐殺犠牲者遺族の体験は沖縄戦とダブる。ニシミヤマナさん(23)は「母は虐殺を恐れ、泣き叫ぶ2歳の弟の口を手で覆いました。親に窒息死させられた子もいました」。米兵から住民が逃げ隠れたガマ(壕(ごう))での悲劇を思い出した。

 確かに、米国が原爆を落としたヒロシマ・ナガサキと違い、ルワンダでは今も加害者と被害者が隣り合って暮らす。宗教観の違いもある。だが「忘れたい体験」と「忘れてはいけない記憶」との葛藤(かっとう)の中、被爆者と虐殺犠牲者は間違いなく共鳴し合っている。

 アフリカで各地に向かう際、かばんのポケットに原爆の惨状やその後の被爆者の生活の困窮を示す写真入りの小冊子を持ち歩くようにしている。現在の復興した街の様子も伝える。アフリカの大地で、ヒロシマ・ナガサキを語る時、熱い気持ちになる。市民の心の中には悲惨な体験を踏まえた「紛争抑止に向けた人類共通の価値観」がある。私は、そんなアフリカの姿を伝えたいと思っている。

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 ■ことば

 ◇ボーン・上田記念国際記者賞

 「優れた国際報道により国際理解の促進に顕著な貢献のあった」記者に贈られる賞。日米協力でニュース通信網整備に貢献したマイルズ・ボーンUP通信社副社長と上田碩三元電通社長が1949年に遭難した際、両氏の功績をたたえ日米マスコミ界有志が50年に「ボーン国際記者賞」として創設した。78年に現在の名称に変更。同賞委員会が選考にあたっている。

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 ■ボーン・上田記念国際記者賞の主な受賞者■

2007 NHK・別府正一郎

  06 朝日・坂尻信義、共同・太田昌克

  05 毎日・國枝すみれ、共同・砂田浩孝

  04 東京放送・金平茂紀

  03 受賞者なし。特別賞=アジアプレス・インターナショナル・綿井健陽、ジャパンプレス・佐藤和孝、山本美香

  02 朝日・川上泰徳、共同・平井久志、日経・鈴置高史

  01 朝日・宇佐波雄策、共同・及川仁

1999 朝日・加藤千洋

  95 中国新聞社・田城明

  94 産経・山口昌子、共同・春名幹男

  93 朝日・松本仁一

  92 産経・黒田勝弘

  90 NHK・平山健太郎

  89 産経・斎藤勉

  87 NHK・木村太郎

  85 朝日・船橋洋一

  84 NHK・柳田邦男

  81 朝日・下村満子

  79 サンケイ新聞社・近藤紘一

  78 NHK・磯村尚徳

  76 朝日・松山幸雄

  75 毎日・古森義久ほか

  68 朝日・本多勝一

  66 毎日・高田富佐雄ほか

  65 毎日・三好修

  63 毎日・林三郎ほか

  60 毎日・大森実ほか

  59 毎日・山内大介

  56 毎日・橘善守

  50 毎日・高田市太郎ほか

 (日本新聞協会の資料より。敬称略。数字は年度。毎日=毎日新聞社、朝日=朝日新聞社、産経=産経新聞社、日経=日本経済新聞社、共同=共同通信社、NHK=日本放送協会)

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 この特集は、高尾具成、斎藤義彦、佐藤賢二郎、篠田航一が担当しました。

毎日新聞 200933日 東京朝刊

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