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2010年8月25日 (水)

ゲゲゲの女房

<A href="http://photofriend.jp/photo/choice/53856/1444675/" target=_blank><IMG src="http://photofriend.jp/u/53856/d7e1af5f2674de5505268c022626844250000000000001444675.jpg" width=252 height=194></A><BR>photo by <A href="http://photofriend.jp/photo/list/53856/" target=_blank>srachai</A> from <A href="http://photofriend.jp/" target=_blank>OCNフォトフレンド</A>

実弟が漫画家志望、東京で住み込みで修行していたが道が開けずアルコール中毒となってしまって久しい。夢が叶わないということは、こんなにも悲惨なものだ。
北九州の実家には「ガロ」や「コム」などの漫画同人誌が山積みされていた。
私はそこで水木しげるの「ラバウル戦記」や「墓場鬼太郎」を夢中で読んだ。
まだ私が高校生のころの思い出だ。
「墓場鬼太郎」はテレビ放映化で「ゲゲゲの鬼太郎」に生まれ変わった。
昔の鬼太郎は今よりももっと不気味で恐い顔をしていた。
テレビ化と同時に子供たちのアイドルとなるべく少しずつ加筆された結果であろう。

以下はcite from wikkipedia,

軍隊時代 :

やがて太平洋戦争が始まる。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えた茂は、哲学書を乱読し、聖書も読んだ。その中で、一番気に入ったのが、ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、戦地にも持っていった。夜間中学3年生のときに召集令状がきた。本籍地の鳥取連隊に入隊がきまった。21歳だった。

軍隊生活でもマイペース振りを発揮し、その大胆な態度から将校と間違われて古参兵に背中を流され、間もなく新参の二等兵とばれて、張り倒された。

失敗の連続、ビンタの嵐で初年兵教育を終え、ラッパ卒になった。ラッパは上手く吹けなかった。配置転換を申し出た。最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。水木は「南であります」と答えた。てっきり九州など国内の南の連隊への配属だと思っていたが、南方行きが決定し青ざめた。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っていた。その異動命令の直後に二泊三日の外泊が許され、両親が戻っている境港に里帰りした。お互い何も喋れなかったという。

ラバウルに着いたとたん上官から猛烈な往復ビンタを食らった。殴られるのは日常茶飯事だった。茂には、「ビンタの王様」というあだ名がついた。

ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、指令本部への総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。

その後、水木はマラリアを発症する。またある戦闘で敵から逃れて九死に一生を得た時、上官から武器を捨てて逃げた事を咎められ、更に「何故死ななかったのか」と詰問されてからは虚無主義的な考え方をするようになったと語っている。さらに療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。だがマラリアも負傷も快復して終戦を迎え、九死に一生を得て駆逐艦の雪風で日本本土へ復員できた。

片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。

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